075 diary.

ワクワクするものだけ摂取して生きていたい

波には乗るが調子には乗らないように

今、人生でビッグウェーブが来ている。

今まで自分が苦労してきたこととか挫折してきたこと、全部伏線回収されているかのように自分にプラスになって身についているということをひしひしと感じている。

高校生の頃から、自己肯定感がずっと低くて、自分のことが大嫌いで、本当にもう死んでしまいたいなんて人生で何度思ったかわからないぐらい自分と自分の人生に希望を持てていなかった私が、30歳を目の前にしてやっと、自分を好きになれているし、自分を誇りに思えている。

こんな日が来るなんて思っていなかったので、本当に嬉しい。


こんなに変われたのは、どれだけ挫折してもちゃんと自分の力で立ち上がって、確実に歩みを進めてきた自分のおかげなんだけれど、でもそれ以上に、周りの人たちに恵まれすぎているおかげだとも思っていて。

なのでこれからどんなに自分に自信を持てるようになろうと、周りの人たちへの感謝と恩返しは忘れずに謙虚に生きていかないとな、と。
そしてもっともっと自分のことが好きになれるように、自分の外見の内面も磨いて、向上心を忘れないように。


で、私の第一章が完結するのにあと必要な最後の1ピースを近いうちに手に入れられるように、ちゃんとこの波乗りこなしてやるんだ。



初心忘るべからず

ひとりで白内障手術を完投するようになってから1年半が経った。
今年度に入ってからは件数は数えてないけど、もう200〜250件ぐらいはやったのかな?

「できるところまで自分なりにあれこれ考えてやってみな、何があっても俺がなんとかするから。(※ただよっぽど危なっかしい時は流石に直前に止めてくれる)」と、いい意味で伸び伸びとオペさせてくれた去年の部長、
ある程度安定して完投できるようになって時間も徐々に短くなってきたけどまだ荒削りなところもあるのを細かい指導で磨いてくれた今年の部長、
その2人と、オペがうまくて上手にアドバイスをくれる先輩たちに
すくすくと育てていただいたおかげで、今は普通の症例なら安定して10分切れるようになってきた(時間がはやけりゃいいってわけじゃないけど、だいぶ無駄が削れてきたってこと!)し、ほとんど破嚢もしなくなったし、成熟白内障も散瞳不良例もたくさんこなしたし、何より、トラブルシューティングが上手くなってきたのが一番自分で成長を感じる。

今はそんなだけど私の1件目のオペは40分弱かかってたし、
最初の方のオペ動画を今振り返って見ると自分でまあまあヒヤヒヤするのだけれど、
でも、私にとって1件目だろうが200件目だろうが、その患者さんにとっては一生に一回の白内障手術(まあ正確には左右あるので2回なんだけど、)ということを今も、これから先もずっと忘れてはいけなくて。

白内障手術をすれば基本的に視力がグッと上がるし見え方がだいぶクリアになるのでほとんどの患者さんが喜んでくれて感謝を述べてくれるんだけど、でも、その患者さんの笑顔と言葉に私もかなり救われていて。


中でも一人すごく私自身が救われた人がいて。

私の最初の数件目に担当した人で、とても優しくて朗らかな方だったのだけど、
術翌日、術後1週間、2週間、1ヶ月後、2ヶ月後、3ヶ月後、半年後の術後の定期検診に来るたびに、
「先生ほんまおおきに!おかげさまでものすごく見えやくて生活も快適になった!」
と毎回嬉しそうに笑って言ってくれて、
それに加えて、「先生ほんまにオペうまかったよ!今日も外来の待ち時間に先生がオペ上手って隣の人に言うといた!」なんて何度も言ってくれて。
当時は手術時間が30分程度かかっていたし、手術中に私が部長から色々と指導を受けながら手を進めていたのも聞いていただろうし、というかそもそも手術を受ける患者さん側からすると執刀医のオペがうまいかどうかなんて絶対に分かりっこないんだけれど、私がまだだいぶ経験が浅くて少し不安があるのをきっと把握した上できっと言ってくれてたんだよね。

なかなか手術が理想通りできなかったりなかなか上達せず燻っているときも、
その人の言葉と笑顔と、優しさを思い出して頑張れた。とても救われてきた。
 


まだ若手で未熟な私を信頼して通院してくれている患者さんのこと、とてもとても大事にしないといけない、
今ものすごく心に留めている。

 

 

あとね、最近、別の患者さんにすごく嬉しい言葉をかけてもらって。
3ヶ月ごとに通院してもらってる緑内障の90代の患者さんで、いつも通り診察を終えて少し話してたら、
「先生、いつもありがとう。まだ若くて大変なことも多いかもしれないけど、私は、先生の人柄が好きで、先生の診察を受けたくて、先生の外来に通っているからね。いい先生に出会えてよかったよ。」
と言ってもらえて、仕事での自信が低迷しているのもあって、嬉しすぎて、患者さんが診察室から出ていったあとさすがに泣いた。



という話を書き残したのも、働き出して5年目、眼科医として働いて3年目、自分の外来を持って手術をするようになって2年目、
ただただ知識と技術を磨けばいいだけじゃなくて、人間性や倫理観も問われることが多いと感じることも最近多くて、自分の初心を忘れないでおこう、と思ったから。

 

なんかさ、最近よく患者を紹介してくる開業医の先生が本当にむちゃくちゃで。

患者さんから話を聞いてると杜撰な治療をされてることも多くて、紹介状もものすごく雑だし、医療を提供する立場としての責任感を全然感じられなくてもっっのすごい腹が立つんよね。

まあでも年数を重ねて、開業医とかともなるとちょっとは感覚変わってくるんだろうなとも思ったりも...


私は勤務医だし、「若手のうちは売上のことは気にしなくていいからね。」と言ってくれる上司の下で伸び伸びと働けていて、何かあったら上司が守ってくれて、シンプルに「患者にとっての利益」だけを考えていられる、本当に恵まれて守られている環境にいるから迷いなく患者ファーストで考えられる余裕があるんだなと思う。

これがどんどん年数を重ねていって上の立場になったり、クリニックで働いたり開業しようもんならきっと他に考えないといけないことがたくさんあってそうはいかなくなってくるのかもしれないけど、本来医療はそうあるべきだし、私の家族が医療機関を受診するときは、患者第一に考えてくれるドクターの元にいってほしいなと思うから。


まあ実際こんな綺麗事ばっかりいって頑張れるような現場ではないんだけど。
できたらぐうたら過ごしていたいし笑、めちゃめちゃイライラしたり腹立つことも多いし、
こっちがどれだけがんばっても患者自信のコンプライアンスが悪かったり病識に乏しいとこっちの努力が水の泡、みたいなこともよくあるし。

人間だもの、色々あるよね。笑


でも、自分のすること、してきたこと、に誇りを持てるように一生懸命頑張ろうと思うし、
今のこの純粋なモチベーションを、この先もずっと忘れずにいられますように。




来世はもう少し上手に生きたい

 

去年1年間同じ職場で働いていて、プライベートでも過ごす時間が多くて、何でも話し合えて、2人で海外旅行に行くほど仲良しで、とても尊敬する先輩と、

ブラッシュアップライフ(ドラマ)がすごくよかったよね、という話をしていて。

 

 

 

もし、今の記憶を持ったまま人生2周目を生きれるなら何になりたい?という話になり。

 

2人とも真剣に考えた後、

 

先輩が、

 

「う〜ん。色々なりたい職業はあるけど、でも、れなこちゃんと働いたこの濃密な1年を通らない人生は考えられないかなあ」

 

と言ってくれて、そんなに私の存在を大きく感じてくれてるんだと、とてもとても嬉しかった。

 

 

 

かく言う私は、

 

「私は幼少期から英才教育を受けてミュージカル女優になりたいですね!あわよくば劇団四季がいいです!!!!!」

 

とか無謀なこと言ってて自分を恥じました。笑

 

 

 

 

 

祖母の死

先日、祖母が亡くなった。突然だった。

先週の半ばから母から「仕事の後元気あったら連絡してね」とLINEが何度か入っていた。
最近は仕事と仕事に付随するあれやこれやでとても忙しくて、プライベートの諸々でメンタルのブレーカーが切れていた私は、心身ともに全く余裕なくほぼ無気力に生きていたので、ちょっとごめん今はしんどい、と母へ返事していた。何か緊急の内容だったら母は電話で連絡してくるので、別に大した用ではないと思っていた。

私が心身ともに余裕がなくなると連絡不精になること、母はよく理解してくれているのでそこから連絡はしばらく来なくなったけど、「おばあちゃんが、心筋梗塞」とだけメッセージが入った。「入院?」と返した私に、母は「まあ、また落ち着いたら連絡して」と。医師の私にとって心筋梗塞は日常茶飯事とまでは言わないもののよくある疾患で、緊急でカテーテル治療を行えば基本大丈夫、という中途半端な(強調)知識を持っていて、母からも全然緊迫した感じは伝わってこなかったので、きっと治療して落ち着いている感じなのだと察していた。

その日は結局仕事から帰宅後即バタンキューしてしまい、翌日電話しよう、と思っていたところ。
翌日、仕事からの帰路についている私に母から電話。なんとなく嫌な予感がして電話に出ると涙声で緊迫した様子の母。「おばあちゃん、緊急カテーテル後落ち着いていて元気だったから今日はICUから一般病棟に戻ったんだけど、さっき心停止したって病院から連絡があって。心破裂したって。今は一応応急処置で心拍再開しているみたいやけど…」と。


心拍再開したと言っても、心破裂してしまったらもう厳しいということは、私にはわかっていた。

 

後悔が押し寄せた。

母が、連絡してねと言ってくれた時にすぐに連絡していれば、きっと祖母に連絡していただろうから。心停止する寸前まで母や父とはLINEをしていたみたいだから、私から連絡していればきっと声を聞いたり、メッセージのやり取りはできただろうから。
あと、一番心残りだったのは、2ヶ月ほど前に祖母から来たLINEの返事をしていなかったこと。この時も仕事で限界を迎えていたので、落ち着いてから返信しようと思って忘れていた。

 

そこから数時間後、祖母は亡くなった。

 

悲しみに暮れる、というよりは突然すぎて実感が湧かないまま、そして後悔の渦に飲まれながら翌日帰省した。

仏間で横たわっている祖母。いつものように寝ているだけのように見え、すぐに起きて笑って私の名前を呼んでくれそうな錯覚に陥ったが、私の声かけに全く反応はなく、そっと触れた祖母の身体は硬く、ひんやりとしていた。

 

それでもなお、祖母が亡くなった実感は出ず。

 

 

葬儀の2日間で色んなことを思い出した。

祖母の家は私の実家から徒歩1分のところにあり、小さい頃から頻繁に祖母の家には通っていた。

私が3歳の頃、弟が水ぼうそうになり隔離のためおばあちゃん家でしばらく預かってもらい、一緒にドラえもんのビデオを見て、ドラえもんの絵描き歌(ま〜るかいてチョン、のやつ)を一緒に覚えたこと。

小さい頃から、毎年近くのリゾート地区にある祖母の別荘に連れてってもらって花火を見に行ったこと。

私のピアノやバレエの発表会、運動会などの学校行事にもいつも祖父と来てくれたこと。

祖父・祖母の陶芸アトリエに遊びに行ったり、陶芸を教えてもらったこと。

私が反抗期や思春期で、父や母との関係がうまくいかなかったとき、何も聞かずに「おばあちゃんはいつでも絶対にあなたの味方だから。なんでも頼りなさいよ。」といつも温かく言ってくれたこと。

祖父が亡くなった後、習い事や趣味に行くようになり、その話をいつも楽しそうにしてくれたこと。

そして、私が医師になったことを一番に喜んでくれていたこと。
祖父が戦後並々ならぬ努力で医大に入学し、医師になったのを側で見ていた祖母は、祖父の後も父、私と医師になったことをものすごく誇りに思ってくれていた。

最近は脳梗塞や硬膜外血腫になり病気続きだったけど、意欲的にリハビリを頑張っていて、行き始めたデイサービスで、こんな面白い人がいてね、と楽しそうに話をしてくれていたこと。

 

いつ会いに行っても、かわいい満面の笑みで私の名前を呼んで出迎えてくれて、帰る時は玄関を出て私が見えなくなるまで手を振り続けてくれた祖母。

 

祖母はいつだって、私を愛してくれて、私を褒めてくれて、私を肯定してくれて、私を喜ばせてくれて、私を守ってくれていた。

 

 

葬儀が終わって電車で帰っている中、そうか、もうあの笑顔を見れないし、私を呼ぶ声も聞けないんだと思うと、初めて、祖母が亡くなったことの実感が湧いて、一人で大泣きした。

 

 

 

“身近な人が亡くなることの悲しみや喪失感”といった感情を私が初めて(擬似)体験したのは「西の魔女が死んだ」という本を小学生の頃に読んだ時だった。"魔女"である、主人公のおばあちゃんは、芯が強くて愛が深いところが私の祖母と似通っているなという記憶があり、それを思い出してまた今になって読んで、またボロボロと泣いた。

 

作中、「人は死んだらどうなるの?」と主人公のまいがおばあちゃんに問うたときの答え。

「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません。いろいろな説がありますけれど。ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけど、魂の方はもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も。まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれて嬉しいんじゃないかしら。」

 

この言葉を読んで、ああ、と少し気持ちが楽になった。

まだ若い頃に胃癌で胃を切除したり、子宮癌術後の腸閉塞などで晩年はずっとお腹の痛みに悩まされていて、食べるものや量がかなり制限されていた祖母。昔から旅行が大好きで、海外へも何度も旅行していて、祖父が亡くなってからも一人でバスツアーに参加したりと意欲的に旅行していたけれど、ここ数年は体力も落ちてきて脳梗塞になったりでなかなか遠出はできていなかったから、これから、自由になった魂で、食べたいものを思う存分食べていてほしいし、色んな地を飛び回っていてほしいな、と思う。

 

 

突然のお別れになってしまったけど、でも、自分のことは自分でしたい、と自立心が強かった祖母にとっては、自尊心を傷つけることなく、苦しむ時間も短かったので、そういう点ではよかったかなと思ったりもする。

 

日が経つにつれてたくさんの思い出と祖母からの愛情を強く思い出していて、まだしばらくは悲しみの渦から抜け出せそうにないけど。

 

 

優しくて、強くて、愛情深い祖母の血が私にも流れているのを誇りに思いながら、私もこれから強く生きていく。

 

 

あと、LINEの返事はすぐにするようにします。

キャリアウーマン


いまのわたしの気持ちの記録。

(主に仕事面で)


先週、学会発表でした。

内容的に炎上する、というか議論が白熱しそうだね〜と上司たちに事前に散々言われていたので考えうる質問とか指摘に対する答えを念入りに用意してったのに、コアな疾患のお話なので誰もあまり興味がなかったのかフロアからの質問はゼロで、座長からの捻って出した感ある質問ふたつで終わった。肩透かしくらった感。


学会に向けての準備期間はマジでしんどくて、まだどうしても"やらされてる感"は多少なりともあるし、マジでアカデミックなことは必要最低限以外にはやりたくないよなァと毎度思う。


でも終わったらいつも達成感と爽快感いっぱいなので、また上司から降ってくる案件をいつも断れずにやってしまうんだよね。

ていうかまあ、断りたくても断れないんだけどさ。笑

 

仕事面で、本当に私は恵まれた環境にいるなあと自分でも感じてる。

 

去年から参加させてもらってる専門外来は割とコアな分野なので、私がやる気さえ出せば割と若手のうちにいけるところまでいけるんだろうなと思うし、上司たちもみんな優しくて素敵な先生たちで。

 


先週学会が終わった後、いつもお世話になってる上司たちとご飯会に行き、とても楽しかったし、私が「次世代の期待の星」として色々と言っていただけるの、だいぶ重荷だなと思いながらも少し嬉しかった。

 


いつも私を一番面倒みてくれてる先生は、「仕事をする中で何かスペシャルなものを若手のうちから持っておくといいよ。途中で"スペシャル"な人になりたくてもなれないから。"スペシャル"な人から、"普通"の人になることはいつでも簡単にできるから」といつも言う。

 


分かるけどなぁ

なにか自分の武器を持っておくと仕事において自信とかプライドとかが自ずとついてくるもんね。自分の強みを持っておいた方がいいのはもちろん分かる。

 


ただ、私のやる気と気持ちにあまりにもムラがありすぎてどうしていったらいいのか分からないのが現状。

 


これからも学会発表とか論文とかガンガンにしていって大学院行って博士号をとって、それこそ"スペシャル"な医者になろう!!!と思う時もあれば、


臨床さえ必要最低限しっかりできればいいや。自分の趣味とかプライベートを充実させてなんぼ。アカデミックなことは全くやりたくね〜!

と思う時もある。

 

地位や勲章がほしいとは全く思ってないし、

私が仕事をしていて一番嬉しいのは患者さんが喜んでくれる時なんよね。

私が手術した患者さんたちが、「びっくりするぐらい見えるようになった!!!!世界が変わった!!!!!」なんて喜んでくれるのが何よりの至福。

 

 

 

まあでもとりあえず専門医を取るまでのあと2年はガムシャラに頑張ってみるか。

 

10月に韓国で学会発表するらしいよ、私。がんばって〜笑